1945年10月、第二次世界大戦の敗戦直後。焼け跡の残る大阪は立売堀で祖父 加藤源太郎が始めた鉄の商いが、2026年のいま、四代目の僕が率いる丸1グループになっています。継いだもの、手放したもの、そして形を変えて続けているものについて、書いておきます。

僕は、いちど家業から逃げた人間です。
1990年10月、関西学院大学の5回生、23歳だった僕は、代々続いてきた家業を継ぐという自分の運命に抗って、東京へ出ました。当時のボスだった真田哲弥さん、西山裕之さんが起こした株式会社ダイヤル・キュー・ネットワークに加わるためです。上京の折、父には同社へ500万円の出資までしてもらいました。
それが引き金となり、京都大学工学部の学生だった弟の昌孝は、黙って経済学部に転部し、家業を継ぐ覚悟を決めていました。僕がそれを知ったのは、4年半もあと、27歳になってからです。僕にヘンな気を使わせたくなかった、弟の配慮でした。
*****
鉄は産業のコメ、と言われた時代がありました。
1967年、父 勝弘が東京営業所を開いたときに全社に掲げたスローガンが『産興一丸』です。1984年には大阪北港の奥小路製鋼と組み、鋼材の一次加工から流通まで一貫した商流をつくって、1980年代後半の最盛期には総従業員は50名、年商は130億円を超えました。
しかしながら、バブルのあとに待っていたのは、国内の鉄鋼の流通構造そのものの大変化でした。
2010年3月、三代目の弟は、祖業である鉄鋼卸と形鋼の一次加工事業を、同業大手の三栄金属株式会社へ譲渡し、撤退するという大ナタを振るいました。祖父の代から続いた看板を下ろす決断が、どれほど重かったか。社交的でも営業肌でもない弟が、右肩下がりの関西で鋼材商社を背負うのは、ほんとうに大変だったと思うのです。(僕の所為で彼の人生を変えてしまったのではないか、という呵責は、今なおあります。)
その後、弟は常吉の工場設備を含む賃貸事業を軸に、会社の財務を健全に立て直してくれました。
*****
2017年4月、その弟を事故で喪いました。
5月8日、僕は弟の後任として、家業の代表取締役に就きました。四代目です。それから月日をかけて、70年におよぶ轍を初めてちゃんと理解し、整理しました。家業を如何にして次代に繋いでいくのか。それが、僕が生きていくうえでの最大の課題の一つになりました。
そして2018年10月、僕はブログに「壮年期はベンチャー型家業承継に挑む」と書きました。2020年から2032年までの12年を、家業をベンチャー型で継いで、世界一に挑む年月にする。そう決めたのです。
*****
継ぐ、というのは、同じことを続けることではない、と僕は思っています。
鉄の商いは手放しました。そのかわり、シンガポールで営んできた法人に資本を集め、マレーシアでの他家幹細胞の点滴のご案内、燕三条での折畳み自転車の事業、多世代が暮らす住まいの運営と、領域を広げてきました。2025年10月、創業80周年の節目には、新潟県燕三条に総本部「丸1グループHQ」を置き、ラジオ大阪の第二位株主となりました。そして2026年、祖業の会社・丸一興産は「大阪放送」へと名を変え、企業のバックオフィスをAIで設計し直す仕事を始めています。
祖父が焼け跡で始めた商いの形は、ずいぶん変わりました。それでも、組織一丸となって新しい産業を興す――『産興一丸』という根っこは変わっていない、と感じてる昨今です。
*****
後継ぎのことで悩んでいる社長さん、継ぐかどうか迷っている二代目・三代目の方へ。
手放すことも、形を変えることも、続けることのうちです。大阪の会社の引き継ぎのご相談は、グループの大阪放送で承っています。
Blog
承継を決めたときのブログ(加藤順彦 公式)
壮年期はベンチャー型家業承継に挑むと決めました。2018年10月3日
弟を喪った翌年、2020年から2032年までの12年を「ベンチャー型家業承継で世界一に挑む」壮年期にすると決め、その覚悟を綴った記事です。弟の転部のこと、家業を次代に繋ぐことが生きる最大の課題になったことを書いています。
大阪の会社の引き継ぎのご相談は、大阪放送で承っています。
大阪の会社の引き継ぎを相談する